障害者サッカー選手の自立について考える

障害者サッカー選手の「自立」について考えてみた。

自分は重度障害を持つかたの支援をしていて、施設においての自立について誰かに伝えるときに良く使う例えがある。

身体機能が同じAさんとBさんがいるとする。

“Aさんは更衣動作が自立していて、2時間かけて自力で着替えることができます。疲れてしまうので昼食の時間まで休憩をとるのが日課です”

“Bさんは介助者に着替えを手伝ってもらい、15分で更衣を終えます。介助者に手伝ってもらい10分で整容を終えます。朝食を終えて仕事に出かけました”

この2人のどちらが自立しているか考えてもらう。どちらが正解か断定はできないが、Aさんはこの1文の中に目的が明示されている。「着替える」が目的だ。

Bさんはこの1文のなかに「仕事にいく」という目的のために、介助者を使っている。なんのために仕事にいくのかという目的に接続されていく。

Bさんの方が何となくわくわくする。

障害者サッカーの当事者(スタッフ含む)にとっての目的は多様だ。少年サッカーもしかり。勝つためと言い切るチームは減っている。人間教育の面が幅広く認識されてきている。

「交流」「リハビリ」「健康維持」「気晴らし」「社会復帰」「社会貢献」「日本代表」…等。

個人の目的をそれぞれが達成するだけでいいわけではないのがチームであり、チームとしての目的をすり合わせるのが難しい作業だと思う。

例えば電動車椅子サッカーの選手は上記のBさんに当たる人が大半であり、「サッカーをする」という目的においては自立している人であり、何のためにチームに所属しているのかという目的に接続されていく。

ただし、チームという社会集団に所属する限り社会性が必要であり、“義務も責任も生じる”。「手伝ってもらう」と「自分でやる」の境界線が人それぞれであり、曖昧になりやすい。

競技によっては障害の幅が広い。

例えば、デフやブラインドやアンプティなどは「聴こえない」「見えない」「片足がない」など“ある程度“(強調)条件が横一線になるサッカーもある。

一方、脳性麻痺者サッカー、精神障害者サッカー、電動車椅子サッカー、知的障害者サッカーは障害の幅も症状も生活環境も比較的それぞれであり、かつ見えづらい(クラブチームと日本代表とでは区別すべき)サッカーもある。

その曖昧さがチームとしての目的に向かうときの難しさや意識の差に表れるのだと思う。

チームとしての目的をはっきりさせたならば、それぞれの選手がその目的に寄せていくような誠意・行動を心掛けること。自分のチームのバランスを各々の選手が俯瞰できるような仕組みにすることが大切だと思う。

「ここは甘えだよね」「これは自分たちでできるよね」「そこは無理することない」など。

それはモチベーションビデオかもしれないし、優れた指導者やリーダーの存在かもしれないし、話し合いの積み重ねかもしれない。

それぞれの自立の上に謙虚さと心の豊かさを持って、仲間と同じ矢印に向かえたら素敵。

あくまで個人の考えなので多々誤解されるようなこと書いてあると思いますが悪しからず。ご意見や感想聞かせていただけたら嬉しいです!

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